廉恥心と羞恥心
【コラム】
コンプライアンス研修の多くは、個人の倫理観に訴え、当事者意識を高めて「自分ごと」にせよと説きます。いい試みですが、「自分」や「当事者」という言葉には限界があります。
他人の仕事はやはり他人の仕事です。嫌いなライバルのミスを「自分ごと」にして、高い当事者意識で救える人はほとんどいません。人間はそんな聖人君子ではありません。
そこで、必要なのは仲間意識・チーム意識です。健全な仲間意識がないと、ライバルのミスを救うことはできません。自己中心的になります。当事者意識と仲間意識が両立してはじめて、圧倒的な当事者意識(ATI)が生まれます。
一方、仲間意識だけあって当事者意識がなければ、それは「連帯責任は無責任」になってしまいます。これを4象限で表すと以下のようになります。
当事者意識と仲間意識を上手く両立させましょう。Companyの和訳には、「会社」のみならず「仲間」もあります。I enjoyed your company.と言ったら、「君と一緒にいて楽しかった」という意味です。仲間と働くから会社なのです。
Companyの語源は、共に(con)パン(pani)を食べる、です。まずは同僚とランチしましょう。
廉恥心と羞恥心
【コラム】
終戦直後のルース・ベネディクト『菊と刀』で、日本人が持つ「恥」が、一神教的な「罪」と比較されました。そこでは、恥を羞恥心(恥をかくのを嫌がる気持ち=Shame)と捉え、罪より劣るかのように扱われました。
人が見ていなければ、罪悪感は感じても羞恥心は感じないため、罪悪感の方が広く感じられる(適用される)関係にあります。
しかし、恥には、羞恥心のみならず、廉恥心(恥を知る心=Sense of honor/dignity)もあり、新渡戸稲造は『武士道』でこの廉恥心を取り上げています。森鷗外『阿部一族』に活写されているような、家の名誉を守るイメージです。
羞恥心は人に見られているときに感じ、廉恥心は人に見られていなくても感じますから、羞恥心が外的・社会的で、廉恥心は内的・道徳的です。
罪にならなくても恥を知る場合はありますから、廉恥心は、罪悪感より感じられる場合が多そうです。
このような羞恥心と廉恥心の違いを考えると、インテグリティは廉恥心にとても近いです。テコンドー精神にある「インテグリティ」も廉恥と訳されています。こちら
インテグリティ・廉恥心・罪悪感・羞恥心の4つを比較すると、インテグリティが最も内的な深奥に関わる道徳的なもので、次に廉恥心、その次に罪悪感、最後に羞恥心が来ます。羞恥心が、最も外的で社会的な心情です。
インテグリティの定義が「人が見ていなくても正しいことをする」であり、羞恥心は人に見られるときに感じるため、こう比較するとインテグリティの位置づけが分かりやすいです。インテグリティは信念や美学に近いです。
昨今は廉恥心という言葉は使われず、羞恥心ばかりが使われています。これは日本人の道徳的な変化を表し、内的・心理的な規範よりも、外的・社会的な価値観を重視するようになったからと思われます。
インテグリティや廉恥心って何だろう、と考えるきっかけにしてください。